Eサン
4月28日は1年ぶりに会う友と川越で呑んだ。居酒屋拙ブログではおなじみの川越市「大将」である。駅前で待ち合わせ、19時ほぼジャストに同店の暖簾をくぐる。
友人の名は仮にEサンとしよう。彼と僕は一昨年11月から昨年4月末日までの丸半年、やはり川越市に所在するWEBスクールでに学んだ仲。午後コース、15時から20時までの5時間を、HTMLやらCSSやらの授業に費やし、疲弊した心身を慰安するべく2人して何度も「大将」で呑み、そして語った。
そこから丸1年。必死こいて習得したWEBのスキルはだがしかし、結局就活には鼻クソほども貢献しなかった...。
だからといって「オレの半年を返せ!」などと叫ぶつもりはさらさらない。駆け込み寺的居酒屋と、Eサンという“心”友を得たのだから...。
彼とは10歳以上離れているが、ジュネレーションギャップは感じない。映画・文学・音楽・ファッション、どんなことでも話せる。この夜もショーケンやジュリー、水谷豊。ジョン・レノンやエリック・クラプトンを肴に大いに盛り上がった。
気が付けば終電間近。「大将」のマスターにも挨拶をし、僕らは同店を後にする。マスターと会うのは、確か前回に呑んだのが2月初旬だから約3ヶ月ぶり、か。
人生に無駄なことなどひとつもない。今はまだ蓄積の時期なのだ。「大将」におけるEサンとのひとときは、苦労ばかりが先だったあの半年間を懐かしい想い出に変えてくれた。
友人の名は仮にEサンとしよう。彼と僕は一昨年11月から昨年4月末日までの丸半年、やはり川越市に所在するWEBスクールでに学んだ仲。午後コース、15時から20時までの5時間を、HTMLやらCSSやらの授業に費やし、疲弊した心身を慰安するべく2人して何度も「大将」で呑み、そして語った。
そこから丸1年。必死こいて習得したWEBのスキルはだがしかし、結局就活には鼻クソほども貢献しなかった...。
だからといって「オレの半年を返せ!」などと叫ぶつもりはさらさらない。駆け込み寺的居酒屋と、Eサンという“心”友を得たのだから...。
彼とは10歳以上離れているが、ジュネレーションギャップは感じない。映画・文学・音楽・ファッション、どんなことでも話せる。この夜もショーケンやジュリー、水谷豊。ジョン・レノンやエリック・クラプトンを肴に大いに盛り上がった。
気が付けば終電間近。「大将」のマスターにも挨拶をし、僕らは同店を後にする。マスターと会うのは、確か前回に呑んだのが2月初旬だから約3ヶ月ぶり、か。
人生に無駄なことなどひとつもない。今はまだ蓄積の時期なのだ。「大将」におけるEサンとのひとときは、苦労ばかりが先だったあの半年間を懐かしい想い出に変えてくれた。
Sクン
丸10年続いた自分のキャバクラ専門誌編集者歴。人員の変動は大なり小なりあったが、印象に残っているのはSクンというスタッフである。
だが、彼がいつ編集部に配属されたのか? の記憶は定かではない。2003年の春ごろだろうか? 彼が「ベストクラブ」から兄弟誌の「ナ○タ○マガシン」に移籍したのは覚えている。04年、9月一日のことだ。
Sクンはとにかくキャバクラ好きな男。加えて酒呑みであった。風俗でヌく金があったらキャバクラへ呑みにイクというタイプであり、1人でどんどんお気に入りの店を開拓し女のコに本指入れて通いつめる。心底キャバクラを愛していたのだ。僕は彼のそんなところが好きだった。
Sクンとは移籍直前に、新宿駅南口前に所在する「蔵」という中華料理屋においてマンツーで呑んだ。彼のキャバクラ・ラヴを高く評価して、僕は当時の人事担当者に「ベストクラブ」残留を懇願もした。Sクン自身もあのタイミングでの移籍は不本意に違いなかったろう。もっともっとキャバクラでヤリたいことがあったハズだ。
「ナ○タ○マガジン」移籍後も彼は「ベストクラブ」を愛好し、客観的に色々なアドバイスをくれた。誌面の企画に同好会“キャバ倶楽部”の一員となって協力もしてもらった。それら総てが良き想い出だ。サンミ君、またコメントよろちこり!
だが、彼がいつ編集部に配属されたのか? の記憶は定かではない。2003年の春ごろだろうか? 彼が「ベストクラブ」から兄弟誌の「ナ○タ○マガシン」に移籍したのは覚えている。04年、9月一日のことだ。
Sクンはとにかくキャバクラ好きな男。加えて酒呑みであった。風俗でヌく金があったらキャバクラへ呑みにイクというタイプであり、1人でどんどんお気に入りの店を開拓し女のコに本指入れて通いつめる。心底キャバクラを愛していたのだ。僕は彼のそんなところが好きだった。
Sクンとは移籍直前に、新宿駅南口前に所在する「蔵」という中華料理屋においてマンツーで呑んだ。彼のキャバクラ・ラヴを高く評価して、僕は当時の人事担当者に「ベストクラブ」残留を懇願もした。Sクン自身もあのタイミングでの移籍は不本意に違いなかったろう。もっともっとキャバクラでヤリたいことがあったハズだ。
「ナ○タ○マガジン」移籍後も彼は「ベストクラブ」を愛好し、客観的に色々なアドバイスをくれた。誌面の企画に同好会“キャバ倶楽部”の一員となって協力もしてもらった。それら総てが良き想い出だ。サンミ君、またコメントよろちこり!
Yサン
自宅の炊飯器は購入したものではなく、貰い物である。当時僕が籍を置いたキャバクラ専門誌のデザイナーだった外部スタッフから、ロハで譲り受けた。
そこの版元は、他にも風俗専門誌やホスト専門誌、レジャー新聞などを発行し、クライアントが各誌に組む広告収入が、合わせれば月何千万とあった。いきおい営業の給料も外部スタッフのギャランティーも、今に比べ破格。思えば、紙媒体最後の春を謳歌していたのだ。
炊飯器を譲ってくれた外部スタッフ、仮に名前をYサンとしよう。彼はそのキャバクラ誌のデザインをほとんど丸受けしていた。カラーのグラビアや特集、モノクロの読み物ページなど、記事スペースの一切合材を仕切っていた。ほとんどのデザイナーが自宅や事務所で作業する中、Yサンは編集部に泊まり込んで仕事をする。なので急な発注や細かいページの手直しにも即対応が利いた。だから何かと重宝し、いつの間にか彼は専属デザイナーのようになってしまった。
それだけではない。Yサンは兄弟誌の発注も臨機応変にこなしたから羽振りも良く、外車を2台乗り回したり高級ソープで豪遊したり、暮らし向きはかなりバブリーだった。2002年から06年にかけてが、色々な意味でYサンの絶頂期ではなかったか?
いいことばかりはありゃしない。版元はオーナーの放蕩三昧や取り巻き連中の無能ぶりが災いし、2007年に入るや急激に失速する。時代はネットへシフトし、クライアントからの出稿量激減が各媒体の凋落に拍車をかけた。
そうなると真っ先に割を食うのが、カメラマンやデザイナーなどの外注スタッフ。彼らへのギャラは支払いが滞り、稼ぎの良かったYサンに至っては、いつしか額が千万単位へと膨らんでいく。
2008年に入るとこの余波は社員にも及んだ。歩合目当てな営業マンのモチベーションは下がる一方で、広告が満足に埋まらない。反対に記事スペースは増え、僕はここぞとばかり自由な誌面創りが出来た。なので個人的にはそれなりに充実していたことは以前書いた。
僕が最後にYサンに会ったのは08年の4月12日・土曜日だ。月イチで開催した打ち上げの席であり、彼の他にもカメラマンやライターなど数多くのメンバーが集まった。カネの未払いをネタにして酒席で盛り上がる余裕が、みんな“そのころまでは”あったのだ。そのうちなんとかなるだろうという..。
だが、状況が好転することはなく、多額の負債をかかえ版元は2009年7月に破産宣告を受ける。もちろんYサンの未払いを残したままで。
2010年10月。池袋の「天狗」で盟友から、僕はYサンが自ら命を断ったことを知る。やや情緒不安定で躁鬱気味なところのある人だったが、まさか自殺とは..。そのちょっと前にYサンとは特に親しかった元編集局長のO氏が「何度ケータイに連絡してもつながらない。いったいどうしちゃったんだろう?」とこぼしていたが...。
今日も僕は自炊。カレーを作ろうと近所のスーパーへ買い出しへ行き、ジャガイモやピーマン、玉ねぎ、ミックスベジタブル、豚の小間切れを購入した。炊飯器から勢い良く上がる湯気の香りを嗅ぐと、徹夜続きの僕相手に下ネタを連発しケタケタ笑っていたYサンのヒゲ面を思い出す。合掌...。
そこの版元は、他にも風俗専門誌やホスト専門誌、レジャー新聞などを発行し、クライアントが各誌に組む広告収入が、合わせれば月何千万とあった。いきおい営業の給料も外部スタッフのギャランティーも、今に比べ破格。思えば、紙媒体最後の春を謳歌していたのだ。
炊飯器を譲ってくれた外部スタッフ、仮に名前をYサンとしよう。彼はそのキャバクラ誌のデザインをほとんど丸受けしていた。カラーのグラビアや特集、モノクロの読み物ページなど、記事スペースの一切合材を仕切っていた。ほとんどのデザイナーが自宅や事務所で作業する中、Yサンは編集部に泊まり込んで仕事をする。なので急な発注や細かいページの手直しにも即対応が利いた。だから何かと重宝し、いつの間にか彼は専属デザイナーのようになってしまった。
それだけではない。Yサンは兄弟誌の発注も臨機応変にこなしたから羽振りも良く、外車を2台乗り回したり高級ソープで豪遊したり、暮らし向きはかなりバブリーだった。2002年から06年にかけてが、色々な意味でYサンの絶頂期ではなかったか?
いいことばかりはありゃしない。版元はオーナーの放蕩三昧や取り巻き連中の無能ぶりが災いし、2007年に入るや急激に失速する。時代はネットへシフトし、クライアントからの出稿量激減が各媒体の凋落に拍車をかけた。
そうなると真っ先に割を食うのが、カメラマンやデザイナーなどの外注スタッフ。彼らへのギャラは支払いが滞り、稼ぎの良かったYサンに至っては、いつしか額が千万単位へと膨らんでいく。
2008年に入るとこの余波は社員にも及んだ。歩合目当てな営業マンのモチベーションは下がる一方で、広告が満足に埋まらない。反対に記事スペースは増え、僕はここぞとばかり自由な誌面創りが出来た。なので個人的にはそれなりに充実していたことは以前書いた。
僕が最後にYサンに会ったのは08年の4月12日・土曜日だ。月イチで開催した打ち上げの席であり、彼の他にもカメラマンやライターなど数多くのメンバーが集まった。カネの未払いをネタにして酒席で盛り上がる余裕が、みんな“そのころまでは”あったのだ。そのうちなんとかなるだろうという..。
だが、状況が好転することはなく、多額の負債をかかえ版元は2009年7月に破産宣告を受ける。もちろんYサンの未払いを残したままで。
2010年10月。池袋の「天狗」で盟友から、僕はYサンが自ら命を断ったことを知る。やや情緒不安定で躁鬱気味なところのある人だったが、まさか自殺とは..。そのちょっと前にYサンとは特に親しかった元編集局長のO氏が「何度ケータイに連絡してもつながらない。いったいどうしちゃったんだろう?」とこぼしていたが...。
今日も僕は自炊。カレーを作ろうと近所のスーパーへ買い出しへ行き、ジャガイモやピーマン、玉ねぎ、ミックスベジタブル、豚の小間切れを購入した。炊飯器から勢い良く上がる湯気の香りを嗅ぐと、徹夜続きの僕相手に下ネタを連発しケタケタ笑っていたYサンのヒゲ面を思い出す。合掌...。
西口 YSステージ
ジャイアンツ対アスレッチックスの試合を東京ドームで観た。盟友Mクンから無料招待券があるからどうか? と誘われたのだ。
ドームは9年ぶり。野球観戦にいたっては20年ぶりになろうか? ペナントに対する積極的な興味などもはや持ち合わせない身だが、ことを終えてからの酒をメインと考え、待ち合わせ場所の後楽園駅・改札へ急いだ。
試合はツマラなかった。原巨人は貧打ここに極まり、といった態で完全にアスレッチックスペース。タダで入ったんだけどカネ返せ! とでも言いたくなるほどショっぱい展開に、僕らは早々ドームを後にする。補強にいくらかけたのか知らんが、おそらく今年も巨人の優勝はないだろう…。
池袋駅で下車し、西口のド真ん中に所在するYSステージ(ビル)に歩を進めた。このビル2階にハコを構える「寿司茶屋 桃太郎」が、今宵の酒席である。
かってはキャバクラ取材でほぼ毎月のように訪れたYSステージ。店名を「club451゜K」と言った。フロアは上下に分かれ、下階がVIPルーム。そこはとにかく大バコで、天井が高くインテリアも豪華。下手なスタジオより場内で撮影した方が遥かにいい“絵”になる。だからグラビア取材も専らVIPルームで済ませた。
あのころは撮影を終えるといつも酒になった。アルコールは一滴もやらないカメラマンのIサンにフィルムを託し、編集長に直帰する旨を告げ、西口ならば「三福」「さかば ふくろ」「若大将まつしま」「大都会」。東口ならもつ焼きの「男体山」あたりでよく呑んだ。
それらは未だ自分の愛好店である。「451」はもはや存在しない。だが、居酒屋は「三福」も「男体山」も健在だ。ナ○タイ時代、苦楽を共にした盟友と鮨をつまみに呑みつつ、僕は「club451゜K」のことを懐かしく思い出したのだった。
ドームは9年ぶり。野球観戦にいたっては20年ぶりになろうか? ペナントに対する積極的な興味などもはや持ち合わせない身だが、ことを終えてからの酒をメインと考え、待ち合わせ場所の後楽園駅・改札へ急いだ。
試合はツマラなかった。原巨人は貧打ここに極まり、といった態で完全にアスレッチックスペース。タダで入ったんだけどカネ返せ! とでも言いたくなるほどショっぱい展開に、僕らは早々ドームを後にする。補強にいくらかけたのか知らんが、おそらく今年も巨人の優勝はないだろう…。
池袋駅で下車し、西口のド真ん中に所在するYSステージ(ビル)に歩を進めた。このビル2階にハコを構える「寿司茶屋 桃太郎」が、今宵の酒席である。
かってはキャバクラ取材でほぼ毎月のように訪れたYSステージ。店名を「club451゜K」と言った。フロアは上下に分かれ、下階がVIPルーム。そこはとにかく大バコで、天井が高くインテリアも豪華。下手なスタジオより場内で撮影した方が遥かにいい“絵”になる。だからグラビア取材も専らVIPルームで済ませた。
あのころは撮影を終えるといつも酒になった。アルコールは一滴もやらないカメラマンのIサンにフィルムを託し、編集長に直帰する旨を告げ、西口ならば「三福」「さかば ふくろ」「若大将まつしま」「大都会」。東口ならもつ焼きの「男体山」あたりでよく呑んだ。
それらは未だ自分の愛好店である。「451」はもはや存在しない。だが、居酒屋は「三福」も「男体山」も健在だ。ナ○タイ時代、苦楽を共にした盟友と鮨をつまみに呑みつつ、僕は「club451゜K」のことを懐かしく思い出したのだった。
Iサン
キャバクラ専門誌編集者時代、校了が済むと僕はその月に撮影されたフィルムをカメラマン&エリア別に分け、アルバムにファイルし整理した。こうしておけば、いつ・どこで・誰が撮った写真でも必要に応じてすぐに用意可能である。
ページが余った際の急な企画や、広告に使うポジのリクエストが営業マンからあったときにこれが生きる。キャバクラ美女名鑑に掲載する写真も、1年前に撮った全く同じ画像データを延々と流用し続けるなんつぅ、みっともない真似が回避できる。
そして、一定期間を経た後にアルバムごとカメラマンに返却した。カメラマンは自分の作品に愛情があるハズとの思いから、他の編集者みたく断り無く大掃除のときまとめて破棄することはしなかった。
何人かのカメラマンには、媒体廃刊後に機会を作って会い、この際にまとめて彼らに手渡した。Tサン、オカやん、K乃サン、ダ〜ヤマさん。
今、僕の部屋にあるのはO村サン、T原サン、Iサンのアルバムである。O村サンは3冊、T原サンは1冊。そしてIサンは12冊...。
Iサンは写真的に僕が一番お気に入りのカメラマンだった。酒もタバコもヤラない典型的なマジメ人間。O村サンやオカやんのように取材を終えた後、一緒に寿司屋へ繰り出した、なんてことは1度もない。付かず離れず、いい意味でビジネスライクな距離を保ち、作業のできた人だ。
同じ機材、同じフィルムを使用し、同じモデルを撮影しても仕上がりはカメラマンによって全く異なる。僕は写真ほどその人の美的感覚が問われるジャンルは無いと思う。性格も極端に反映される。
僕が担当した郊外エリアは都市圏のキャバクラと違い、どうしても女のコのルックスにバラつきが生じる。写真自体に力のあるカメラマンでないと、容姿の差異を埋めるのは困難。これを難なくクリアしてくれたのがIサンだ。
Iサンは女のコをつねに品良く捉えた。ポーズの付け方も上手い。まるで水彩画のような透明感のある写真。それは毒々しく禍々しいキャバクラの世界にあって確実に一服の清涼剤たりえた。たとえどのエリアのどのキャストでも、Iサンにまかせれば大丈夫。そのくらい僕はIサンの作品に心酔していた。
雑誌のバックナンバーや当時の取材メモをひもといてみても、いかに自分がIサンを頼りにしていたかが明白だ。創刊から廃刊まで、僕のキャバクラ編集者歴はIサン(の写真)とともにあったと書いて過言じゃない。
手元にある計12冊のポジアルバム。いずれも媒体後半の2007年から08にかけての、僕が編集者として最も充実した仕事を出来た時期の、Iサンの写真(集)である。これらもいつか返却する日が訪れるのだろうか? いや、Iサンの写真だけは、どんなに場所を取ろうが手元に置いておきたい気がする。
ページが余った際の急な企画や、広告に使うポジのリクエストが営業マンからあったときにこれが生きる。キャバクラ美女名鑑に掲載する写真も、1年前に撮った全く同じ画像データを延々と流用し続けるなんつぅ、みっともない真似が回避できる。
そして、一定期間を経た後にアルバムごとカメラマンに返却した。カメラマンは自分の作品に愛情があるハズとの思いから、他の編集者みたく断り無く大掃除のときまとめて破棄することはしなかった。
何人かのカメラマンには、媒体廃刊後に機会を作って会い、この際にまとめて彼らに手渡した。Tサン、オカやん、K乃サン、ダ〜ヤマさん。
今、僕の部屋にあるのはO村サン、T原サン、Iサンのアルバムである。O村サンは3冊、T原サンは1冊。そしてIサンは12冊...。
Iサンは写真的に僕が一番お気に入りのカメラマンだった。酒もタバコもヤラない典型的なマジメ人間。O村サンやオカやんのように取材を終えた後、一緒に寿司屋へ繰り出した、なんてことは1度もない。付かず離れず、いい意味でビジネスライクな距離を保ち、作業のできた人だ。
同じ機材、同じフィルムを使用し、同じモデルを撮影しても仕上がりはカメラマンによって全く異なる。僕は写真ほどその人の美的感覚が問われるジャンルは無いと思う。性格も極端に反映される。
僕が担当した郊外エリアは都市圏のキャバクラと違い、どうしても女のコのルックスにバラつきが生じる。写真自体に力のあるカメラマンでないと、容姿の差異を埋めるのは困難。これを難なくクリアしてくれたのがIサンだ。
Iサンは女のコをつねに品良く捉えた。ポーズの付け方も上手い。まるで水彩画のような透明感のある写真。それは毒々しく禍々しいキャバクラの世界にあって確実に一服の清涼剤たりえた。たとえどのエリアのどのキャストでも、Iサンにまかせれば大丈夫。そのくらい僕はIサンの作品に心酔していた。
雑誌のバックナンバーや当時の取材メモをひもといてみても、いかに自分がIサンを頼りにしていたかが明白だ。創刊から廃刊まで、僕のキャバクラ編集者歴はIサン(の写真)とともにあったと書いて過言じゃない。
手元にある計12冊のポジアルバム。いずれも媒体後半の2007年から08にかけての、僕が編集者として最も充実した仕事を出来た時期の、Iサンの写真(集)である。これらもいつか返却する日が訪れるのだろうか? いや、Iサンの写真だけは、どんなに場所を取ろうが手元に置いておきたい気がする。




