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彼女たちの流儀

 8年前の2009年6月。自分は、ナイタイ時代の大先輩・飛鳥 翔氏の計らいのおかげで、氏が専務を務める出版社刊行のアダルトDVD専門誌「AV FREAK」に専属ライターとして参加することになった。ナイタイを給与未払いの会社都合で辞めたのが2008年5月。丸1年ぶりの社会復帰だった。

1年2か月におけるAVライター時代ついてはこのブログにそれこそ何度も綴っている。当初の苦労が多かった分、書くことにやり甲斐を見出せてから以降の充実感はひとしおだった。今でも、締め切りに追われつつ必死になって原稿を書いたあの頃を、ナイタイ時代とはまた違う意味で度々懐かしく思い出す。

 自分が紹介した作品に出ていた女優は、当然のことながらその大半がAV業界を去っている。なんといっても8年である。その歳月は長く重い。引退に際しけじめのイベントを行ないファンや関係者に惜しまれつつ去っていった女優がいる一方で、SNS上でも正式な宣言をすることなく中途半端な形で業界から消えていった女優もいる。そんな中で未だに惜しいと思うのは前者で書けば東野愛鈴と村西まりなであり、後者で書けば鷹宮りょうと松生 彩である。

だからなおのこと、未だ第一線で頑張っている女優はすごいなと感心する。明日花キララ・川上ゆう・佐山 愛・つぼみ・北条麻紀・吉沢明歩etc…。

 意外なところではKAORIという女優がいる。この人は、もともと森嶋かおりという名でキャンギャルをやっていた。あのMUTEKIレーベルから、2010年の春に“現役キャンギャル云々”のふれ込みでデビューした。“そういう人”の常として、その処女作は、どこからどう見ても嫌々やっているのが見え見えな代物で、“こりゃ、1年も経たないうちに辞めていくな”と確信した。それがどうだろう、バリバリの現役女優として、未だコンスタントに主演作をリリースし続けている。つまり最初から腹をくくっていたということなのだろう。まぁ、キャンギャル時代とは似ても似つかないルックスになってしまったが…。

 女優のキャリアを堅実に積み重ねつつ、自分が本当にやりたいことに挑みその分野でも高い評価を得る人もいる。西野 翔はアニソンをフォローするイベントDJとしての知名度が本業を上回る感じだし、希美まゆは本格派シンガーとして近い将来必ずブレイクすると確信している。

 そして大塚 咲さん。絵心があり、写真のセンスにも長け、優れた文才をも持つ。なおかつ、それらを同じカラーで統合し唯一無二の世界を構築してしまう。本当にすごい人である。絵は描けないし写真は撮れないし文章を書くのは好きでもそれが秀でたものなのかまったく確信の抱けない自分などは、彼女の作品にふれるたびしばしば無力感にとらわれる。

 描く才能(絵画・イラスト)・撮る才能(写真)・歌う才能&弾く才能(音楽)・書く才能(文筆)。もちろん演ずる才能(舞台・ドラマ)etc…。本人が意識するしないにかかわらず優れた才能を持つ女優がAVの世界には相当数存在する。だから、そういった才能に着目しそれらを紹介するブログも十分ありだと思うのである。
 
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終わりの始まり その6

  たとえ遅配が続こうが、ナイタイ出版の定期刊行物に携わる編集部員には、2007年いっぱいなんとか給料が支払われていた。

 事態が悪化したのは年が明けた2008年からである。1月分の給与はまたもや遅配だった。自分の場合、支払いが全額済んだのは2月15日・金曜。本来なら5日に全額振り込まれるはずの給料日がこうして繰り下がるのはもう慢性化していたから最早さほど気にも留めなくなった。だが問題は2月分からである。
 
 3月5日・水曜の午後、昼食を取った後で、“どうせ全額は振り込まれていないんだろうな”と思いつつ、会社近くのATMで給料払い戻しの手続きをした。

 …。あぜんとした。1円の入金もなかったのだ。

 それまでは、たとえどんなに少額であろうと、5日の時点で給与は一部必ず入金されていた。

 それがないのである。“マジかよ! シャレになってねぇよ!!”…。心の中で驚愕しつつ、一方では、“来るべきときがとうとう来たか…”ともつぶやいていた。

 ギャラの未払いに憤慨しナイタイに見切りをつけた外注要員、歩合の未払いに失望しナイタイを去っていった営業部員。彼らのことを考えれば、“よく今日の今日までオレたちはなんとか給料を貰えていたよな”。そう思ったのだ。

 先の2月には、29日・金曜に国税局の査察がナイタイに入る事件も勃発した。その結果、関連書類を押収され、税金滞納を理由に会社の口座が差し押さえられしまった。ナイタイは組織としてすでに“死に体”だったのだ…。

 2日後の3月7日・金曜に、経理部員からだったと思うがまたもや現金で給与の一部を手渡された。総額を半分も満たしていない。しかし、自分が3月中に貰えた2月分の給料は結局それのみだった…。

 2月分給与の支払いが全額済んだのは驚くなかれ、6月17日・火曜である。1カ月分の給料を貰うのに丸々3カ月かかったのだ…。(つづく)

終わりの始まり その5

 振り込まれるはずの給料が振り込まれていなかった。2007年9月5日・水曜のことである。

 嫌な予感は薄々していた。それは「ベストクラブ」(以下ベスクラ)前編集長・O倉クンの「あの会社に未来はない」という一言だったり、毎月恒例のベスクラ打ち上げにおける現編集長・KB小林クンの「今度という今度こそはもう駄目です」という一言だったりした。

 編集長という役職ゆえ、小林クンは会社の上層部と接触する機会が多い。アホなオーナーの放蕩三昧に広告収入が追い付かず自転車操業が続く実情をすでに把握していたのだろう。

 当時の社長S氏に呼ばれ、振り込まれていなかった給与の残金を手渡された。以降07年いっぱいはそんな調子である。5日の給料日に満額が振り込まれることなどほぼなく、残額は要所よぅしょで現金支給というケースが続いた。そんな中、つね日頃誌面作りに協力してくれていた外注スタッフからは会社の懐事情について度々質問された。遅配でもなんとか満額を貰えていた自分たちに対し、彼らは何か月にも渡りギャラが支払われていなかった。それでも律儀に撮影を続けてくれた岡田さんや池田さんにはなんとも申し訳ない気分にさせられた。

 営業部もすっかり覇気を無くしてしまった。あれだけ独立だの分社だのと舞い上がりそのために採用を増やしたはずなのに、一人抜け二人抜けやがてどの部署にも新人がいなくなってしまった。それだけならばいつものことでさほど気にも留めない。だが、クライアントを多数持ち安定した歩合収入を得ていたはずの中堅社員までがナイタイに見切りをつけ去ってゆくのである。

 営業も、基本給はともかく歩合の支給はかなりの期間滞っていたのだ。何人かは、業者から受け取った広告費を経理に入金せず歩合代わりにネコババまでしていた。それが発覚し責任の追及を恐れ退社というケースも増えていた。

 会社に金がないから歩合が払えない。不満を持った一部の営業マンは広告費を入金せず懐に入れてしまう。だから、会社の金庫や口座にはますます金がなくなる。まさに“負の連鎖”である。

 そして年の明けた2008年、いよいよのっぴきならない状態に自分たちは追い込まれてゆく…。(つづく)

終わりの始まり その4

 腐臭を放つ猛禽類の檻みたいな営業部に無理矢理幽閉されたストレスは尋常ではなかった。自分は、撮影のアポ取りに10日かけ、店舗取材に10日かけ、入稿作業に10日かけるスケジュールでそれまで「ベストクラブ」を作っていた。しかし、方々から怒号や罵声が響く営業部署内では、ゆっくり誌面構成を考えたりじっくり原稿執筆に向かったりが難しい。いつしか、自分の足は営業部の狂騒から離れていった。具体的に書く、定時に出社しタイムカードを押すのをもう辞めにしたのだ。

 それまではろくすっぽ休みも取らなかった。土・日・祝日も編集部に顔を出しなんらかの形で仕事をしていた。だから、自分にはかなりな日数の有休が残っていた。これを消化し、平日の12時から19時までを自由に使うことに決めたのだ。これなら休日扱いだから、何時に社へ顔を出そうと誰にも文句は言われない。

 キャバクラの取材は、ほとんどが平日16時から19時の間に行われる。アポ取り及び撮影期間中は、店舗への連絡もカメラマンの手配も社外でやった。当日も自宅から電車に乗り現場に直行。待ち合わせ場所でカメラマンと合流し店舗へ向かう。内観撮影・キャストの単体写真撮影・集合写真撮影・店長及びキャストへのインタビューetc。すべてを終えると、カメラマンの車に同乗しここで初めて会社へ顔を出す。だいたい20時前後である。

 そのぐらいの時間になると、営業の連中はほとんどが外回りに出ているから、昼間のやかましさが嘘のように社内は静まり返っている。現像所宛ての封筒にフィルムをしまい現像所行きの箱に入れ、現像所から戻ってきた前回撮影分のポジシート入り封筒を箱から出し、誌面に使う写真をカメラマンと一緒に選ぶ。取材メモを清書し、翌日撮影予定の店舗に開始時間の確認を入れる。すべてが終われば、新宿の街に繰り出し終電ギリギリまで酒を呑む。

 入稿作業期間もしかり。20時ぐらいに出社し、そこからラフレイアウトを引き原稿を書き校正をする。これらに翌朝7時ぐらいまでかける。そして頃合いを見計らい帰宅する。

 このスケジュールで動けば、いちいちやかましい営業とは無縁で取材・入稿に専念できる。結果余計なストレスからは解放された。だが、編集以外の人間と疎遠になるということは社内事情に疎くなるということと同義である。例の“独立分社”がその後どうなっているのかはまったく把握できていなかった。自分は完全に“浦島太郎”だったのだ。

 そして、2007年9月5日・水曜…。この日をさかいに、毎月5日に振り込まれていた給与の支払いが不定期になった。外注に及んでいた“遅配”がついに内部を蝕み始めたのだ。(つづく)

終わりの始まり その3

 ナイタイの営業というのは、実に閉鎖的でなんとも排他的で極めて暴力的な部署であった。入社当初は温和で分別をわきまえた好漢であっても、そこに配属され3カ月~1年~3年と経つ内にいつか性格が変わってゆく。表情が刺々しくなり、ふるまいが大仰になり、言葉が乱暴になる。気に障れば物にあたり、ささいなことで大声で部下を罵倒し、あげくの果てには殴り飛ばし蹴り倒す。自分はそんな光景を何度も目にした。右翼系大学応援団と武闘派暴力団を足して二で割った空間。いや、本当にそういうところだったのだ。

 そんな営業部に、「ベストクラブ」(以下ベスクラ)や「ナイタイマガジン」(以下ナイマガ)といった編集部スタッフは、“独立分社化”なぞというワケのわからない理由で無理矢理押し込められてしまったのだ。個人的にそのストレスは尋常ではなかった。

 出社すれば、すぐ隣りの部屋では営業部の朝礼が行われている。皆が皆大声を張り上げて、ワケのわからないスローガンや社訓をがなっている。発声の仕方があまりにも変なので、何を唱えているのかはまったく聞き取れない。本当にずいぶん後になってからだ、それが「ヤる気とぉ~!ガッツとぉ~!ファイトでぇ~!!」というフレーズだと理解したのは。

 それが終わると営業幹部連中の訓示が延々続く。営業幹部、つまり四分割化された部署それぞれの長“四人”のである。

 しかし、これらの長は“ある一人”を除けば決して“嫌な奴”ではなかった。ベスクラ担当だったH氏という人は、見た目は大柄でプロレスラーの渕 正信にそっくりだったが、言葉遣いも丁寧で部下への態度もまっとうな上司のそれであったし、自分たち編集スタッフにも何かと気を配ってくれた。そういう意味では、営業傘下とはいえベスクラはまだ恵まれていた。その他「ナイタイマガジン」担当だったO氏・「近代将棋」担当だったK氏とは、ナイタイが崩壊した後に再会し、元ナイマガ編集長の悪友MAH小林クンと一諸に酒を酌み交わしたことがある。ナイタイの“良い思い出”で盛り上がり実に楽しいひとときであった。

 聞けば、元ナイタイの営業メンバーは、未だ定期的に集まって酒食を共にしつつ旧交を温め、お互いが持っている情報を交換し合うという。未だ風俗業界で営業に携わる人が多いのだ。多少の揉め事はあったとしても、辛い時代を互いに乗り越えてきたという共通の認識が根底にあるのだろう。その親睦会は<ナイの会>と言うらしい。いい話しではないか。

 H氏もO氏・K氏も、本来はみな酸いも甘いもかみ分けた常識人である。人によって評価はまちまちだろうが自分は三人とも好きだった。

 未だに思い出すだけでも虫唾が走るのは、“ある一人”「ナイタイスポーツ」担当のMという奴だ。このオトコの評判は当時から最悪で、編集のみならず営業のメンバー全員からも毛ムシのように嫌われていた。ナイタイのイナカモンオーナーをさらに下品にしたような、見た目も人格も本当に最低・最悪のゴミ中のゴミだった。営業の雰囲気を暗く・重く・殺伐としたものに変えたのはすべてこのオトコの仕業だと断言しよう。ゆえに前述の<ナイの会>にも誰もこのオトコは誘わないし、誰も名前すらもう聴きたくないと吐き捨てる。(つづく)

プロフィール

ノゲイラ牧

Author:ノゲイラ牧
フーゾク、デークラ、ホストにテレクラ。キャバクラそしてAVと、怒濤の業界遍歴を経てなおさまよい続ける。明日はあるのか?

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